いわゆる「音叉」。楽器の調律に使う。
合唱でも近年、ア・カペラの曲を演奏する時などに
冒頭の音取りなどで使用する機会が増えてきている。
かつては、コンクールでもピアノで各パートの音を全て叩いたり、
ピッチパイプというハーモニカと同じ原理の笛を使うことが多かった。
また最近は、自前のキーボードを持ち込む団体もあるが、
例え、音律調整が可能なハーモニーディレクターだったとしても
所詮、鍵盤に頼っている団体というのは私の興味をそそらない。
その点、ピッチパイプは条件的には音叉と同じなのだが、
どうも、あの「プー」という音が頂けない。
その後にわき上がるであろう音楽に期待を抱けないのだ。
そして、多少の偏見が入っているかもしれないが、
ピッチパイプで音を取る団体には演奏する調の主音ではなく
最初の音そのものを鳴らすところが少なくない気がするのだ。
これは、音叉を使っても同じことなのだが
主音を鳴らさないのならば、潔く鍵盤で全部の音を弾いた方がいい。
その方が、悲惨な音になる確率が下がる分だけましではないか。
そんなこんなで、私も音叉を携帯しているが
私のは、そこいらの音叉とはちょいと違う(自慢)。
知り合いの調律師M氏からいただいた
スタインウェイ社の創立150周年記念モデルなのだ(再び自慢)。聞くところによると、1万5000円相当の品らしい。
手に取るとずっしり重く、安定した美しい響きが長く続く一品だ。
さらにこの音叉には、血塗られた歴史が秘められている。
ご存じの方はご存じの通り、最近の合唱界はA=442Hzが一般的。
つまり、俗に言う「ラ」の音を442Hzに合わせている。
伴奏用のピアノは大概、442ヘルツに調律されているが
音叉も442Hzのものを持っている人が多い。
しかし、この音叉はA=440Hzだったのだ。
「442Hzもすることもできますよ」と言うM氏の言葉に
「それでは今度、やり方を教えてください」とお願いしたのだが、
しばらく経って、あるリハーサル会場で一緒になり
偶然、二人ともまとまった時間が空いたので実行に移した。
理屈は簡単、チューニングメーターを見ながら
ヤスリで音叉をガシガシ削るだけだ。
二股に分かれた先の方を削れば音が高くなり、
逆に根本を削れば音は低くなるのだそうだ。
もっとも、M氏が持ち出したチューナーは十数万円のプロ仕様で
設定した音に対してどれだけ高い(低い)かが一目瞭然で
極端な話、音感に自身がない人でも簡単に使える代物だったけど。
ところがである。
さすがスタインウェイ社の記念品。削っても削っても音が変わらない。
正確に言うと、メッキが立派すぎてなかなか削れないのだ。
二人で交代しながら20分位削っただろうか?
業を煮やしたM氏がそれまでの数倍の力を込めてヤスった。
すると、さしものメッキもようやくはがれ、少し音が高くなった。
気をよくしたM氏は、さらに力を込めてヤスった。
あと一息で目指す442Hzに到着すると、ほっと一息ついた瞬間
手を止めたM氏の右手の人差し指が、鮮やかな赤色に染まる。
「うげ~、Mさん。めっちゃ血が出てますよ」
「うわっ、本当じゃ。夢中になりすぎた」
「この後、まだ調律あるんですよね。大丈夫ですか?」
「そりゃ何とかなるけど。こりゃいけん。
ちょっと、手を洗ってくるから。あとよろしく」
そんなこんなで、世界に一つだけの音叉“スタインウェイ150周年記念モデル442バージョン」が完成した。
けっこう痛々しくはがれたメッキが、M氏の傷を連想させるけど。